足利事件の裁判は、検察官が中々面白いことを言ってしまったので
少しは気になるようになってしまったのだが
人間性の否定」云々を言ったか言わないかは、証拠として録音が残っているんなら、在った場合どうなるか(人間性を否定したような言動でも)とか、検察官の信用も問われることになってしまっております。
証拠云々の問題でなく、証拠以外は自白の強要かというところ。
日本の裁判でなければ司法取引成立とか、もっと早く終わっとるとか、コールドケースだ、ああだこうだと言えるが、何せ、犯罪率に対しての逮捕率と有罪率が、比較するとエラいことになっている国。
正直、このタイミングで、検察官のあの発言は、世論どころか社会的にイカンですよ。(有罪にできない理由がなかったというわけだが、強要した自白による有罪ってのは、検察として如何なモノかという論理矛盾の説明もないな)

それから、東海ローカルだったけれど、徳山ダム問題。久々に見た、梶原拓。考えを今の観点で考え直すことが唯一出来てなかった行政の主導役といったところだろうけれど、
更に気になったのは住民の発言による「何故、我々なのか、他にあるだろう」という趣旨。
昨今、賑やかな普天間基地移設問題もそうだが、このような趣旨の発言の時に、私はニュース等で
「どこか別のところ」という言葉を見るが、全て
AではないX、を想定し、Xはあたかも存在するようであくまで理想の終着点
AではないB,C,D 現実的に選択するのは、要因を定めてから
という様な話がないのである。辺野古沖以外に適しているXがあるのなら、其処に移設するのは行政、政治、政策として、最も適したオペレーションなのであるわけで、反論が空想ではムダな話のように思えてならない。
とはいえ、その現実的な選択肢を創設するのは、選択権のある、主導役を仕事なのだが、時に一本しか用意していない、愚かな政策が存在する。
梶原の言葉は、その最たる例であった。行政の長は、失策と分かったときには既に長にいないことが多いから、責任問題が困るのである。