あなたは開票速報の間眠ってるのね

EURO2004の大国の敗退(特にスペインとイタリア)についての意見を色々見させて貰ったが、非常に面白くなく、理解不可解な文も多く、しっかりと書くべきではないかと思うので書く。スペイン、イタリアなどが勝つ気が無かったとか言えるのだろうか?そんなはずがない。では何故か?それを書く。逆にそれを書くことで、非常に興味深いことが見えてくる。 参議院選挙が面白くないと思うなら、これに何かコメントでもしてくれるとありがたい。文句もしっかりと受け入れよう。
まずは後藤健生の文章を引用して、論点を抽出してみよう。
「1960年代末から約20年間、チャンピオンズカップにおいてスペインやイタリアのクラブが低迷したのは、両国で外国人選手の登録が禁止されたことの影響だった。外国人選手(および監督)の影響力が強すぎ、自国の選手が育たない。『そのために』の名目で外国人選手の登録は禁止されたのだ。
(中略)第2次大戦直後にはトリノが「グランデ・トリノ」と呼ばれる史上最強チームを作った。イタリア代表のほとんどをトリノの選手が占めたこともあった。だが「グランデ・トリノ」は1949年の悲劇的な飛行機事故で壊滅。それを受けて各チーム3人まで外国人選手が認められることになる。しかし、外国人FWの急増によってイタリア人FWが伸び悩んだことで、1950年にはセリエAでは外国人選手は2人まで、セリエB以下では禁止とされるようになり、さらに1953年には外国人選手は全面禁止となる。しかしビッグクラブの圧力もあり、規制はすぐに緩和された。それは1955年のことだった。各国代表クラスの外国人FWによる圧倒的な攻撃力を止めるために小さなクラブのチームは守備を強化せざるを得ず、リベロを置いて守る「カテナチオ・システム」が考案され、それは次第にビッグクラブにも普及していく。だが、外国人選手の受け入れは、イタリア・サッカー界に悪い影響ばかりを与えたわけではなかった。外国人選手のプレーに刺激を受けて、若い選手が育ってきたのだ。しかし、1960年代の半ばになるとイタリアのクラブの経営状態は悪化し、1962年、1968年のW杯で1次リーグ敗退に終わったこともあって、1965年にはすでにイタリアのクラブに在籍していた選手を除いて外国人選手との契約が再び一切の例外なく禁止されてしまう。この間、イタリア代表は1970年のメキシコW杯で準優勝、1978年のアルゼンチンW杯では4位と好成績をおさめていたが、外国人選手がいなくなると童子にクラブレベルの国際大会ではまったく活躍できなくなってしまう。1973年のユベントスが準優勝して以来、イタリアのクラブは決勝に進むことも出来なくなってしまう。そこで、再び外国人選手の解禁を求める動きが出てくる。そして、1980年には「1名のみ」という制限で外国人選手が解禁され、1988年までに人数の制限も「3名」に拡大され、1980年代には再び多くの外国人選手がイタリアのクラブに加わるようになった。こうしたワールドクラスの選手の加入によって1980年代から1990年代にかけて、セリエAは「世界最高のリーグ」として讃えられるようになり、イタリアのクラブはチャンピオンズカップで常に優勝争いを演じるようになった。
(中略)イタリアは伝統的に守備の強い国だ。戦術的にはディフェンシブな「カテナチオ・システム」を捨てた現在でも、選手達は手抜きをしないし、彼らのディフェンシブなメンテリティーが変わっていない。つまり、DF陣はイタリアの選手で十分であり、外国人選手を導入すべきは攻撃的なポジションということになる。実際、第2次大戦直後には多くの外国人FWが活躍した。それがさらにイタリアの守備を鍛えた。だが、ルイジ・リーヴァ以来強力なストライカーが育ち初め、最近ではクリスチャン・ヴィエリフィリッポ・インザーギなどの優秀なストライカーがいるし、セカンドストライカー的なアレッサンドロ・デルピエロのような選手も控えている。 現在のイタリアのチームにとって欲しいのは中盤でのオーガナイザーやパッサーだろう。
スペインの場合、外国人選手の獲得はイタリアほど早く始まらなかったし、それほど有名な選手が来ていたわけではなかった。最初の有名外国人選手はFCバルセロナのラディオス・クバラ。クバラの活躍によってバルセロナは1952年、1953年と連覇を達成。一方、レアル・マドリードは西班牙の内戦終結後一度も優勝していない。そこでレアル・マドリードも優秀な外国人選手との契約を狙い始めた。スペイン内戦が終わった後の1943年、サンチャゴ・ベルナベウがレアル会長に就任。チャマルティンに巨大スタジアムが建設されていた。そして、ディステファノを獲得することで、スペインの覇権を握り、またチャンピオンズカップでも5連覇という偉業を達成。しかし、1963年にはスペインでは政府の命令によって外国人選手との契約が禁止されてしまう。やはり、スペイン人選手のレベルアップが目的だった。だが、スター不在で国内リーグの人気はていめいし、チャンピオンズカップでの優位は失われてしまう。そこで1973年には外国人選手の登録が解禁された。バルセロナはクライフ(およびリヌス・ミケルス監督)を獲得し、その年にはリーグ優勝する。スペインでもこと時の外国人選手解禁によって刺激を受けて若い選手達が育った。スペインの場合、外国人選手解禁からチャンピオンズカップの奪還まで時間はかかったが、クライフが監督になったFCバルセロナが1992年に優勝。最終的にはワールドクラスの選手を多数獲得したレアル・マドリードが1998年以降何度も優勝するまでになった。
(中略)スペインの場合、クラブレベルではあれだけの栄光の歴史を持ちながら、代表レベルではヨーロッパ・ネーションズカップの優勝を除いて大きな成果を上げていない。これはスペイン人選手だけで戦う場合に。MFの能力に問題があるからではないだろうか。この国でも外国人として活躍するのは、ストライカーかゲームメイカーが種だ。
こうして外国籍選手を使うことで、その国のサッカー・スタイルの弱点を補うことができる。ナショナルチームでは絶対にできない補強法である。 (後略)」

今回の大きなテーマだが、引用の出典がCLなのであるが、直接ナショナルチームに当てはまるのである。だから、スペイン代表に、イタリア代表にないものは歴史的にそうなることが決まっていたのである。知っての通りこの2チームは自国リーグの選手ばかりが名を連ねていた。(例外はモリエンテスだけ)イタリアについては、後藤の文章そのままであるが、現在であると、ピルロがいたりするので若干の修正が必要なのかもしれない。しかし、オーガナイザーは確かにいなかった。

そしてスペイン敗退を考察しよう。この国を代表する2クラブの中心選手は、ジダンロナウジーニョフィーゴサビオラロナウドダーヴィッツベッカムと外国人である。しかし、あのスペイン代表の中心ポジションがレアル、バルサの選手だったのである。彼らの個人としての才能が開花することを中心に組織が構成される。そして、この2チームは典型的なリーガの戦術を施行していない。代表とリーグが乖離し始めている。イルレタの采配は素晴らしいと思うのだが、これを代表に反映されたら、どのような戦術になるかすぐに分かるだろう。そうした場合、バレロンとFWはトーレスモリエンテスになる。ラウールを誰かと組むと言うことが思い浮かぶことはない。彼はやはりFWであって、2列目の選手ではない。サイドウィンガーがタテに切り込むことで最後にセンターの選手が決める、スピードが溢れるサッカー。デポル、ベティス、セルタ等が顕著だろう。あのサッカーが具現化しなかった。ところがスペイン代表はどちらかとバルサやレアルと同じ方向を目指してしまった。そういうことから、リーガの選手同士が機能しない為の得点力不足、システムの機能上、ファンタジーを生み出すためのスターが必要となる。ところがそんなファンタジスタがあの23人の中にいたのだろうか?バレロンか?バラハか?全然該当しない。攻撃のプロセスがまったく定式として成立しない。そして2クラブ(特にレアル)にずっと言われていた守備の崩壊が、そのままに代表チームに反映された。これが敗退の原因の1理由ではないだろうか? 前からラウル・ブラボの起用についてと、サルガドのケガ、サエスの采配ということでの理由は書いたと思う。ただそれ以上に心配を感じた。

  • 当初の問題を言い直そう。大国の大罪というならば、逆に外国人選手に活躍を与えたこと。イタリア人、スペイン人選手では敵わない部分を、他の国から引き入れて補填した。補填した選手の数が増えることは他国の選手が増えることを意味する。その選手達の才能がナショナルチームとして集まり、組織として機能したらどうなるか?それは強いに決まっている。逆にリーグを持つ国自体の力が下がってしまうかもしれない。しかし逆に影響を受けて才能ある選手が生まれる可能性もある。これが罪なのか?