ハイデッガーだと死に対して自分を投企することで、自己の存在を見出すことができるとなるとするのだが、果たして本当にそうか?と思ったりはしている。勿論、これは「存在と時間」が未完に終わったことで解決されないことであるが、ハイデガーの色々な本を読むと例えば木田元の本だとその部分が薄かったりする。木田元の「ハイデガー『存在と時間』の構築 (岩波現代文庫―学術)」においてもそう。近年、次々と刊行されているハイデガー全集(あまり訳が良いとは言えないが)であるが、それが出てからより良い内容のハイデガーの論文が出るのだろうと期待している。創文社の全集より細谷貞雄訳の「ニーチェ」(筑摩書房)が細谷先生の死去によって途中で中断されてしまった(細谷訳の「存在と時間〈上〉 (ちくま学芸文庫)」「存在と時間〈下〉 (ちくま学芸文庫)」は素晴らしい)ののが痛い。薗田宗人訳(白水社)も悪くはないのだが、ハードカバーで無いのが残念でならない。結局、現在の日本のハイデガーの論文は渡辺二郎の2つの大著(剄草書房)だと思うが、廃刊だよね。今。
存在と時間」「現象学の根本諸問題〈第2部門〉講義1919‐44 (ハイデッガー全集)」「カントと形而上学の問題 (ハイデッガー全集)」「径路(この中に『芸術作品の起源』がある)」「ニーチェ(書籍もまた、それぞれの論文についても)」まで網羅しようとするとまず、ムリだね。分厚い。多い。ハイデガーの芸術感や、ニーチェについての考え方とニーチェハイデガー形而上学の比較とか大変だわ。他にもフランスのポストモダンがどうしてニーチェハイデガーが引き合いに出されたのかとか。死ぬね。私は得意でないのでパスしたいが、リルケヘルダーリンの詩について、パルメニデスヘラクレイトスといったギリシャの哲学家まで考えようとしたら頭はパンクする。