古典的な

古典も活用できなければ。

私の好きな哲学のジャンルについて、古典的と評されたことが何度かあった。典型的な名前はイマヌエル・カント。カントは古典的らしい。確かにカントの考えがなければヘーゲルハイデッガーもないわけだが、何が古典的なのか自分ではよく分からないが、しっかりと論理が構築されて理性について説く文体は他にはないな。私には古典はギリシャだと思っているが、ギリシャ哲学は読むと考えの発端となる事象が不可解だったりするのよね。科学的でないから。アリストテレスですら。ところが、マルクスニーチェギリシア哲学(ギリシャ哲学はギリシア哲学史でも見て、名前を知って下さい。あまり面白くないから原典読まないし)からエッセンスを抽出して自分の哲学を完成させていく。体系化された。そういえば思い出したが、体系化しないのがソクラテスの産婆術。何せプラトンによる記述しか残っていないわけだが、昔英語の教師が「ソクラテスは何も凄くない云々」の事を言い残したときに、個人的にもソクラテスは凄くないのかと感心したことがあったな。ああ、懐かしい。